真珠湾攻撃作戦に関するノート

真珠湾攻撃作戦も、奥が深い。

真珠湾攻撃参加搭乗員に関する資料について

 真珠湾攻撃に参加した全搭乗員の氏名、階級、配置については現在ほぼ全員判明しているが、これは最初から判明していたわけではなかった。今回は、この真珠湾攻撃参加搭乗員に関する資料について紹介する。

 

 戦史叢書「ハワイ作戦」昭和42年

  令和3年9月20日現在、日本で唯一ともいえる大東亜戦争公刊戦史である戦史叢書の第10巻に「ハワイ作戦」という題名で真珠湾攻撃作戦に関して取り扱ったものがあるが、その付録に「機動部隊ハワイ攻撃隊搭乗員名簿」が収録されている。しかしこの編制表は、第一次攻撃隊の瑞鶴降爆隊25機50名が欠如している。また同資料に「資料の関係から正確を期しがたい」とある。

 

 増刊 歴史と人物「秘録・太平洋戦争」昭和57年9月

  当時定期的に増刊として大東亜戦争関係の特集を発刊していた『歴史と人物』において、秦郁彦氏らが調査発表した「全調査 真珠湾に殺到した七百人」という題名で搭乗員のリストが掲載された。しかしこの時点においても第一次攻撃隊瑞鶴降爆隊25機50名の氏名は欠如したままであった。

 

 増刊 歴史と人物「太平洋戦争-開戦秘話」昭和58年1月

 『増刊 歴史と人物』の「秘録・太平洋戦争」の時点では真珠湾攻撃参加搭乗員全員のリスト復元は絶望視されていたが、瑞鶴第一次攻撃隊降爆隊の堀建二氏(第2中隊第25小隊、甲飛3期、当時二飛曹)が出撃の朝、黒板に書き出された編制割りを日記へ書き写していたものが提供されたことで、1名を除いて復元された。(註1)これにより、戦史叢書「ハワイ作戦」で欠如していた第一次攻撃隊瑞鶴降爆隊25機50名をほぼ復元することが出来た。

 

 モデルアート「真珠湾攻撃隊」平成3年

 平成3年に雑誌モデルアートの増刊号として「真珠湾攻撃隊」が発刊された。この本は模型雑誌ではありながら、真珠湾攻撃に関する資料が収録されている大変有益な本である。この中に「ハワイ攻撃部隊編制表」が収録されている。一部誤記があるが、戦没者搭乗員の氏名、所属、出身地や真珠湾直前偵察水上機搭乗員の氏名等も収録されており、非常に有益な資料である。  

 

 大日本絵画真珠湾攻撃隊 隊員列伝」2011年

 大日本絵画から出版されたこの本は、真珠湾攻撃に参加した搭乗員のうち分隊長以上50名と戦死したベテラン搭乗員19名の経歴等が収録されている。また、秦郁彦氏らによる調査発表された搭乗員リストを基礎にした資料も収録されている。

 

 以上が真珠湾攻撃に参加した搭乗員に関してまとめられた資料である。戦史叢書「ハワイ作戦」が発刊された当時には判明していなかった瑞鶴第一次攻撃隊降爆隊25機50名が、当時攻撃に参加した方の日誌に書き写されたものが戦後にも保管されており、これが発見されたことによりほぼ判明、搭乗員リストの復元が可能となったことは奇跡といえるであろう。また、このリストはさらにブラッシュアップされ、その後の生死についてもほぼ判明したのも驚きである。

 

註1 「全調査 真珠湾に殺到した七七〇人」によると、堀建二氏が提供した日記に書き写された編制割には当時の慣習により氏名の最初の一字だけしか書かれていなかった。日記を所有していた堀氏や瑞鶴飛行長だった下田久夫氏、同分隊長だった江間保氏、艦爆搭乗員会会員および昭和17年1月当時の瑞鶴編制表を参照しながら復元を可能な限り行ったが、それでも1名の不明者が残った。

真珠湾攻撃作戦に関するノートについて(兼目次)

 このブログは、真珠湾攻撃について調べたことの備忘録・ノート代わりの書き殴りを集めたものです。内容は考察中のものがほとんどです。ご指摘大歓迎ですが、誹謗中傷・攻撃的なものはご遠慮ください。

 

真珠湾攻撃について知らされた人の反応 - 真珠湾攻撃作戦に関するノート

 

真珠湾攻撃に関する資料データーベース - 真珠湾攻撃作戦に関するノート

真珠湾攻撃に関する資料データーベース

回想記

「証言・真珠湾攻撃光人社NF文庫

真珠湾作戦回顧録」源田実 文春文庫

真珠湾攻撃」淵田美津雄 河出書房

雷撃機電信員の死闘 『ト連送』で始まった太平洋戦争」松田憲雄 光人社NF文庫

「艦攻艦爆隊」光人社NF文庫

「機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記」橋本 廣 光人社NF文庫

「空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録」山川新作 光人社NF文庫

 

ノンフィクション

 「零戦 最後の証言」神立尚紀 光人社NF文庫

 「真珠湾奇襲攻撃 70年目の真実」 市来俊男 新人物ブックス

 

資料となる書籍

 モデルアート1991年10月臨時増刊号 「真珠湾攻撃隊」1991年

 大日本絵画 「真珠湾攻撃隊 隊員列伝 指揮官と参加搭乗員の航跡」2011年

 中公文庫「日米開戦と真珠湾攻撃秘話」2013年

 

 

 

 

 

 

 

真珠湾攻撃について知らされた人の反応 その1 志賀淑雄の場合

 真珠湾攻撃に参加した人たちが作戦について初めて知らされた際、どのような反応をしたのであろうか。今回は戦闘機搭乗員で加賀戦闘機分隊長だった志賀淑雄が戦後の座談会や雑誌投稿で回想したエピソードを紹介する。

 

 志賀が真珠湾攻撃について初めて聞いたのは、昭和16年10月末頃であった。源田実中佐来訪が事前の予令により伝えられ、戦闘機隊分隊長以上が参集した。この際に源田中佐から志賀らに真珠湾攻撃について伝えられたが、板谷茂少佐(戦闘機隊指揮官)ら大多数の者は反対であった。戦闘機搭乗員としては、真珠湾に行っても敵は上がってこないのではないか、上がってこないのならばやってもしょうがいない、それよりも堂々と迎え撃つべきだという意見が多かったという。また、寝込みを襲わなければアメリカ艦隊を潰せないのか、飛行機隊に対する不信だ、と口々に文句を言い、源田中佐をつるし上げたという。(文藝春秋臨時増刊「日本航空戦記」)

 また志賀らは要塞に対する艦隊での攻撃の不利やこれまでの対米邀撃作戦構想とは違う真珠湾攻撃に対してもし企図が暴露して強襲となったら態勢は全く逆となってしまう懸念があり、やるなら米艦隊を真珠湾からおびき出して海上で堂々と雌雄を決したい、司令部にはその自信がないのか、と源田に訴えたが、源田は「文句を言うな」とこれを一蹴した。(光人社NF文庫「証言・真珠湾攻撃」)

 志賀ら戦闘機搭乗員にとって真珠湾攻撃が奇襲攻撃である以上、たいした活躍の場があるわけではなく、さらに開戦劈頭で寝込みを襲うような攻撃実施となることから、大いに不満を持っていた様子がわかる。

 

 戦闘機隊の分隊長以上の者は真珠湾攻撃に参加した者たちの中でもかなり早い段階で真珠湾攻撃について伝えられていたようで(他の機種搭乗員には11月3日)、戦闘機出身の源田中佐の仲間意識からくる配慮をしたのか、あるいは源田自身も真珠湾攻撃について不安、不満があったのかもしれない。源田中佐がとにかく戦闘機隊に一番に伝えたかったのだろうが、志賀らからの反発は源田中佐も苦慮したことであろう。ちなみに、このエピソードについては源田実著「真珠湾作戦回顧録」には記述がない。

 

 ※追記。神立尚紀氏の著書「零戦最後の証言」(光人社NF文庫)によれば、源田が真珠湾攻撃について告げた場所は佐伯のコンクリート造りの指揮所の二階で、源田中佐が攻撃について話した時、みんなおとなしく聞いており、実際に文句を言ったのは横空時代から源田と顔見知りであった志賀だという。この事を話したのも志賀で、果たしてどちらが正しいのか。

 

参考文献:文藝春秋 臨時増刊 「日本航空戦記」

     文春文庫 源田実著 「真珠湾作戦回顧録

     光人社NF文庫 「証言・真珠湾攻撃

     光人社NF文庫 神立尚紀著 「零戦最後の証言」

 

2021年9月19日 追記。